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ワイン・ミシェル・ガードナー
(Wayne Michael Gardner , 1959年10月11日 - )は、オーストラリア、ニューサウスウェールズ州ウロンゴン出身の元オートバイ・ロードレーサー。ロードレース世界選手権500ccクラスの1987年チャンピオン。エディ・ローソン、ウェイン・レイニー、ケビン・シュワンツとともに「四強」と称される。
パワースライドを駆使した豪快なライディングとロスマンズ・ブルーのマシンカラーから「ブルー・サンダー」の異名を取った。また、鈴鹿8時間耐久ロードレースで歴代2位の4勝を挙げ、「8耐男」とも呼ばれた。
ホンダのエース
1985年、前年の実績を評価されたガードナーはUKホンダに起用され、3気筒のNS500に乗りセミワークスライダーとして本格参戦。優勝争いには届かないものの、フランスGPでは4気筒のNSR500に乗るフレディ・スペンサーと互角にバトルを展開するなど健闘し、ランキング4位を得る。
この年の鈴鹿8耐では優勝大本命のケニー・ロバーツ、平忠彦組が先行する中、ガードナーは終盤の2時間近くをライダー交代をせず猛追。ロバーツ・平組のリタイアで劇的な初勝利を達成する。連続走行のためチェッカー後はマシンから降りられないほど消耗していたという。以後、ガードナーは鈴鹿8耐においてホンダのエースとして活躍することになる。
1986年はワークスのロスマンズ・ホンダチームに加入し、前年度チャンピオンのスペンサーと共にNSR500で参戦。開幕戦スペインGPでさっそく初勝利を挙げるが、これはトップ独走中のスペンサーが突如右手首の怪我でリタイアしたためであった。結局、スペンサーはこの故障で欠場を重ね、ガードナーは突然「代役エース」に昇格して、孤軍奮闘でワークスホンダの威信を背負って立つことになる。NSR500はフレディー・スペシャルとも呼ばれる扱い難いマシンだったが、これをねじ伏せヤマハのエースエディ・ローソンと激しいチャンピオン争いを展開。計3勝でランキング2位を獲得し、着実に王座への足がかりを固めた。
チャンピオンから引退へ
1986年のシーズンオフ、名エンジニアジェレミー・バージェスらとマシン開発の主導権をとる。体制充実して臨んだ1987年は、不調のローソンに代わり台頭したラッキーストライク・ヤマハのランディ・マモラと激しいポイント争いを展開。終始安定した強さでシーズン7勝を挙げ、第14戦ブラジルGPでオーストラリア人初のWGP500ccクラスチャンピオンに輝いた。
ゼッケン1番をつけて臨んだ1988年はマシン開発が遅れ、4勝を挙げるがローソンにタイトル奪還を許す。また、ケビン・シュワンツ、ウェイン・レイニーら新世代の台頭にも直面した。シーズン後には宿敵ローソンがホンダへ電撃移籍を表明し、同メーカー内で真価を問われることとなる。
1989年は初開催の地元オーストラリアGPを制したものの、次戦アメリカGPで右足骨折の重傷を負い、早々とタイトル争いから脱落する。以降、毎年のようにケガで満足に戦えない状態が続き、ホンダのエースの座も同郷の後輩マイケル・ドゥーハンに譲ることになる。1990年においてはアーブ・カネモトとジョイント。スペイン、オーストラリアと2勝するものの序盤での怪我が響きランキング5位。1991年は鈴鹿8耐で5年ぶりに優勝したが、WGPでは未勝利に終わった。
1992年、開幕戦日本GPでまたも右足を骨折。欠場後、鈴鹿8耐で最後の4勝目を記録すると、第11戦イギリスGPのレース前にシーズン後の引退を宣言。そのレースで1990年オーストラリアGP以来の勝利を飾り、引退への花道とした。
記事引用:ワイン・ミシェル・ガードナー wiki